中国の庭

解説

中国では庭園を「園林」と表記し、必ず池・石・木・橋・亭などの五つの要素が全て揃っていることを「園林」の条件とする。この点からすると、日本の庭園とは大きく違うようにも思われるが、日本の庭園のルーツは中国の庭園に求められる。中国庭園の濫觴は、自然を取り込んで造られた大規模な苑囿である。秦の始皇帝の蘭池宮(咸陽)や前漢の武帝の上林苑(咸陽)がその代表であるが、古代の苑囿では広大な敷地内に珍しい動植物を飼育栽培するとともに、巨大な池を造営し、そこに中島や築山を築くことで蓬莱・方丈・瀛洲などの神仙世界が再現された。不老不死の神仙世界を庭園に表現することで、その理想性と永遠性を皇帝自らの属性にすることを願ったものであろう。こうした神仙世界を表現した庭園様式は、北魏の華林園(洛陽)、隋の西苑(洛陽)、唐の大明宮太液池(長安)へと継承され、また韓国や日本など中国周辺の東アジアの諸国にも広がっていった。池を海浜の風景に見立て、池の中島を大海に浮かぶ蓬萊山を表現した庭園様式は、日本の寝殿造庭園や浄土式庭園にも繋がるものである。
しかし、古代中国における蓬莱型庭園はすでに失われて見ることはできない。現存する庭園の中では清代に江南の名園・名勝を模して造られた避暑山荘や昆明池や万寿山の造営で名高い頤和園などが中国庭園の代表として知られているが、皇帝所有の庭園ではなく、個人の作った庭園としては蘇州古典庭園を挙げることができる。蘇州古典庭園には宋代・元代などの比較的古い形の庭園も残されており、改修等が繰り返されてきたとは言え、その歴史的価値は高い。唐の頃から隠遁思想や「詩情画意」の理念が庭園に取り込まれるようになり、宋代になると更に文人趣味を反映した風雅な庭園が盛行した。名所を模したり奇岩を取り込んだりして造られた情緒ある庭園は、文学や絵画などの芸術が生み出される場でもあった。蘇州古典庭園は中国庭園の古い形を伝えるだけでなく、庭園における文学の営みを考える上でも貴重な存在であると言える。ここでは、蘇州古典庭園の中から三つの庭園を紹介することにしたい。

獅子林(庭園写真館「中国の庭」獅子林を参照)

元末期の至正二年(1342)に禅僧の惟則(天如和尚)の弟子が師の供養のためにここに庵を建てたのが獅子林の始まりとされる。現在は「獅子林」と表記しているが、本来は「師」と「子」の「師子林」の意であったことが、元の欧陽玄「師子林菩提正宗寺記」や危素「師子林記」(ともに『師子林紀勝集』所収)から知られる。この地は、元々、宋代の廃園で竹林や奇岩が多くあったが、太湖石を用いた築山やその山の中の洞穴などは後世に造られたものと見られる。明代の画家の倪雲林は「獅子林図」を描いていている。また清代の避暑山荘には獅子林を模した造園が取り込まれている。

拙政園(庭園写真館「中国の庭」拙政園を参照)

明代中期の正徳四年(1509)に創建された庭園である。元々、大宏寺という寺であったところを御史の王献臣が私宅の庭園を造営したことが拙政園の始まりである。明の文徴明は「王氏拙政園記」や「拙政園図」を残しているが、「拙政園図詠跋」によると、西晋の潘岳の「閑居賦」にある「此亦拙者之為政也」の詩句から拙政園と命名されたという。

滄浪亭(庭園写真館「中国の庭」滄浪亭を参照)

滄浪亭は蘇州の南にあり、蘇州の古典庭園の中でも最も古い歴史を持っている。元々、五代末期の節度使であった孫承祐の別荘であったものが荒廃していたが、北宋の中期に蘇舜欽が改めて滄浪亭を建てた。その庭は、当初は高い丘と広い池だけの素朴な庭園であったことが蘇舜欽の「滄浪亭記」(范成大『呉郡志』巻14所収)から窺われる。清代に大規模な改修がなされたが、その後も荒廃と改修を繰り返しながら現在の滄浪亭に繋がっていく。「滄浪亭」の名は、屈原の『楚辞』「漁夫辞」の中の「滄浪之水清兮 可以濯吾纓/滄浪之水濁兮 可以濯吾足」の句によるものである。四大名園の一つである。