韓国の庭

解説

古代韓国の高句麗・百済・新羅においても、隋・唐の影響のもとに庭園文化が発展し、それが古代日本に伝えられたことは、両国の古代庭園の多くの共通点からも明らかである。韓国の庭園の場合、宮廷を中心とした蓬莱モデルの庭園と、寺院を中心とした方形池の二種に大別して考える必要がある。蓬莱モデルの庭園とは、蓬莱に見立てた中島と海に見立てた池を中心にした中国伝来の庭園形式であり、その代表が百済の宮南池と新羅の雁鴨池である。形態的には曲線的な池汀を持つ曲池であること、また、その池に蓬莱山などの神山を模した中島を築くことなど、日本の古代庭園との共通性が顕著である。これに対して、定林寺跡などに見られるような寺院の蓮池には、中島が作られることはなく、垂直な石組の方形池であることを特徴とする。この方形の池の形式は、飛鳥期の方形池と共通するものである。しかし、日本では、7世紀後半頃から方形の池の形式は衰退し、蓬莱モデルの庭園が主流となり、やがて寝殿造庭園が形成されていく。特に寺院の庭園においても寝殿造庭園と同形式の浄土式庭園が展開された点には、韓国の庭園史とは異なる歩みが認められる。ただし、寝殿造以前の飛鳥・奈良時代の庭園における韓国の影響は軽視できるものではない。また、中国の庭園文化を模倣する形で曲水宴を開いたり詩宴を催したりした庭園の文学も、日本と韓国は共有していたことも留意しなければならない。蓬莱モデルの庭園文化の受容とそこから乖離した寝殿造庭園の形成を考える上で、古代韓国の庭園との比較は極めて重要であると言えよう。ここでは、7つの古代韓国の庭園について紹介したい。

宮南池(庭園写真館「韓国の庭」宮南池を参照)

宮南池は、百済(538~660年)の武王(?~641年)によって、634年に王宮の南に作られた離宮の池である。『三国史記』によれば、武王は池に三神山(蓬莱・方丈・瀛州)の一つである方丈山を模した中島を築き、東屋を設けさせたという。宮南池は韓国最古の人工池であり、現在は、忠清南道扶余邑の薯童公園として整備されている。中島には抱龍亭という東屋が建てられ、岸から中島へ長い橋が渡されており、観光スポットともなっている。護岸は、池も中島も垂直な護岸で、州浜や立石などは見られない。池の汀線は、直線的な部分と曲線的な部分を持ち、岸には柳が植えられている。池の周囲は、蓮池などが広がり、大きな公園となっている。

定林寺跡(庭園写真館「韓国の庭」定林寺跡を参照)

定林寺は、扶余に建立された百済後期の寺院で、宮南池からもほど近い位置にある。660年の百済滅亡の際に焼失し、現在はその寺院跡に1400年前のもと言われる五重石塔と高麗時代の石仏座像を安置する講堂が建っている。発掘調査によって、同寺は、門、講堂、金堂などの建物が南北に一直線に並んだ百済様式の代表的な伽藍構造であったことがわかっている。この百済様式の伽藍は、日本の四天王寺式伽藍と共通のものである。定林寺の南北の中心線を挟んで東西に蓮池がシンメトリーに二つ並ぶ。この蓮池は、垂直な石積みの護岸と直線的な池汀を特徴としており、日本の飛鳥時代の方形池と類似している。

弥勒寺跡(庭園写真館「韓国の庭」弥勒寺跡を参照)

百済の扶余から南に約30㎞ほどの益山市にある弥勒寺は、東西260m、南北640mの寺域を誇る百済最大規模の寺院であった。龍華山を背景に百済末期の巨大な石塔が並び建つが、その中間の北寄りにも建物があったことが確認されている。伽藍の形式としては、日本の飛鳥寺の伽藍配置と類似する。弥勒寺の創建について、『三国遺事』は、百済第30代の王になった武王がその王妃である善花公主(新羅の真平王の娘)と共に龍華山の獅子寺の知命法師のもとに向かう途次に池の中から弥勒仏が出現したのを見て、善花公主がその地に弥勒寺を建てたという逸話を伝えている(ただし善花公主の創建は史実と異なる)。その弥勒湧出の池と同じかどうかは定かでないが、弥勒寺の南側に現在も池が残っている。葦が生い茂っていて護岸は確認できないが、池の岸は直線的で形はほぼ方形に近い。弥勒寺の跡地は、現在、弥勒寺跡遺跡展示館となっており、西塔の改修工事が進められている。

官北里(庭園写真館「韓国の庭」官北里を参照)

百済の都であった泗沘城の跡地と推定されるのが、官北里遺跡である。大型の建物や貯蔵施設の跡、上水道施設や道路の跡などが発掘されているが、その中に蓮池も含まれている。この蓮池は、10m×6mの長方形で、その深さは1m程度である。その岸は加工された石材が積まれた形で護岸されている。池の周囲から蓮花模様の瓦、陶製の硯、銅製の耳飾り、唐の貨幣、木簡などが出土したことから、この蓮池は王宮や行政機関の施設の一部であったと推定されている。

王宮里(庭園写真館「韓国の庭」王宮里を参照)

王宮里は、益山の弥勒寺から6㎞ほどの所にある。泗沘城の離宮として、武王の時代(在位600~641年)に作られたものである。その規模は、南北490m、東西240mに及び、百済末期の大型の建物跡、庭園跡、工房跡などが発掘されたが、また、統一新羅時代の金堂跡や高麗時代の五重の石塔も確認されており、百済の滅亡後に寺院化したことが窺われる。同所は、現在も発掘調査が進行中であるため、復元までには及んでおらず、庭園についても蛇行水路が見られるだけだが、隣接の王宮里遺跡展示館で、その全体像を把握することができる。同館の展示によれば、庭園には石組みの方形池があったことが発掘調査によって明らかになっているという。

雁鴨池(庭園写真館「韓国の庭」雁鴨池を参照)

韓国慶州市にある雁鴨池は、新羅の文武王の14年(674年)に建てられた臨海殿の庭池である。当時は新羅が百済・高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した直後であり、統一新羅の象徴とも言うべき庭園であった。当初は、月池と言われていたが、新羅の滅亡後は荒廃し、水鳥が息うだけとなった池を朝鮮時代から雁鴨池と呼ぶようになった。現在は、慶州の観光スポットになっている。雁鴨池は北側・東側で大きく曲がり、全体的にはⅬ字型になっているため、池の全景を見ることができないような設計となっている。北側や東側では岬のような出入りが多く、複雑な池汀線をなすが、南側や西側は対照的に直線的な池汀線を結んでいる。池には大小3つの中島があり、これは神仙境の三神山(蓬莱・方丈・瀛州)を模したもので、また北岸の12の小山は、仙女の住む巫山十二峰を模したものと言われる。こうした庭園意匠からも、神仙思想を基盤とした蓬莱モデルの庭園であることは明らかである。池の岸にも部分的に州浜のようななだらかな傾斜が作られたり、岬のような突出を作ったり、立石のような大きな石を配置したりと、変化に富んだ庭園意匠が見られる。Ⅼ字型の曲池であり、州浜や立石との類似性も認められることから、日本の平城宮の東院庭園との類似性が注目される。

鮑石亭跡(庭園写真館「韓国の庭」鮑石亭跡を参照)

慶州の南山の麓にある鮑石亭跡地は、現在、小さな公園となっており、建物等は無く、鮑のような形をした水槽と石製の水路のみが残されている。作られた時期は定かでないが、新羅第49代の憲康王(在位875~886年)の時代には既にあったことが、『三国史記』に記録されている。また、『三国史記』や『三国遺事』の記事によると、新羅の第55代景哀王の時、王たちが呑気に鮑石亭で宴会を楽しんでいる最中に後百済の甄萱に攻撃を受けことを伝えている。その後、統一新羅は国力を保つことができなくなり、935年に高麗に降った。新羅の風雅を象徴する鮑石亭は、同時にその廃頽と滅亡にも繋がる場でもあった。鮑石亭の水溝の形態は、飛鳥の酒船石などを彷彿とさせるものとして注目されている。また、鮑石亭の水溝は流觴曲水の宴に用いられたものと考えられるが、日本でも盛んに行われた曲水宴は、庭園の遣水を利用して行われたと見られる点、庭園文化の受容の中にも日本と韓国には違いが見られる。