平安時代に入っても9世紀前半までは、政治・文化全般に唐化傾向が強く、庭園も唐の大明宮に倣うように離宮や後院に大規模庭園が造営された。平安前期の大規模庭園を代表するのが神泉苑と嵯峨野院である。神泉苑は、794年の平安京遷都造営の当初から作られたものであり、池を中心に13万㎢を占める広大な禁苑であったが、現在はその1/16程度に縮小され、真言宗の寺院として残されている。現存の池には州浜は見られず、中島のみが確認される。記録によれば、802年には桓武天皇が宴を開き(『日本紀略』)、812年には嵯峨天皇が花宴を開く(『続日本紀』)など、神泉苑は天皇と臣下の詩宴や遊興の場であったことが窺われる。
嵯峨野院は、文字通り嵯峨野の地に営まれた嵯峨上皇の上皇御所である。現在の大覚寺の地がそれにあたる。大覚寺の大沢の池には中島、州浜、飛び石などがあり、平安期の庭園の面影を今に伝えているが、ここもまた、当時は神泉苑と同様に嵯峨上皇を中心とした詩宴の場であった。「文章経国」思想を掲げた嵯峨朝から仁明朝の時代は、勅撰漢詩集が相次いで編まれたように漢詩文の隆盛期であり、神泉苑や嵯峨野院のような皇室の大規模庭園が君臣和楽の詩宴の場であった。この大沢の池は中国の洞庭湖を模して造られたとも言われるが、具体的にどの辺の造形が洞庭湖を模した表現なのかは定かでない。ただし、少なくとも、大沢の池に臨んだ日本の文人貴族たちが、洞庭湖を詠じた中国の詩人たちを意識しながら作詩に励んだ可能性は否定できない。庭園文学を含め、東アジアから導入された庭園文化は、強く唐の影響を受けながら日本においても発展をしていったのである。
しかし11世紀頃になると、文化事情は大きく変化した。大沢の池の遣水を100mほど辿ると、藤原公任の和歌「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなお聞こえけれ」で知られた「名古曾の滝」が今もある。現在は石組みしか残らず、滝の面影はないが、かつては歌枕の名所として広く知られた場所である。これは、つまり、9世紀における〈庭園―洞庭湖―漢詩〉、という唐風の文化的な枠組みが、11世紀においては〈庭園―名古曾の滝―和歌〉という和風の文化的な枠組みに変化したことを物語っている。この間の10世紀に起こった変化とは、庭園における寝殿造庭園の誕生であった。
寝殿造という建築様式の成立について、太田静六著『寝殿造の研究』では、醍醐朝前後の9世紀前半の時期と推定しており、それが今日まで通説となっている。その建築様式に対応する形で新たに形成されたのが寝殿造庭園である。寝殿造庭園は大きく二つの部分から構成されている。一つは、寝殿の建物部分の直ぐ前に広がる平坦な広場のような空間で、白砂や玉砂利が敷き詰められていた。この前庭には建物の近くに若干の草花を配した前栽が設けられることもあるが、基本的には鑑賞のための庭ではない。内裏の南庭と同じように儀式や行事のための儀式空間である。大臣クラスの貴族の庭園では、大臣饗応などの儀式を行うために25mほどの奥行きが必要とされた。この広い前庭の奥に広がるのが、池や中島、築山や立石、そして様々な植物などを人工的に配した庭園空間である。寝殿造庭園と言う場合は、多くこの池を中心とした庭園空間を指している。この寝殿造庭園における池や中島の造型は、緩やかな傾斜に玉石を敷き詰めた州浜様式を用いるなど、多くの点で奈良時代の庭園を継承したものであるが、その相違点の一つに挙げられるのが「名所」の模倣という庭園の造型方法である。
11世紀後半に橘俊綱(1028~1094年、父は藤原頼通)によって編まれた『作庭記』は、寝殿造庭園の作庭指南書であるが、その冒頭部分には、「国々の名所をおもひめぐらして、おもしろき所々を、わがものになして、おほすがたを、そのところになずらへて、やはらげてたつべき也」と記されている。諸国の「名所」を模倣して庭園に再現することが寝殿造庭園の作庭の基本であることが明記されているが、これは奈良時代の庭園や平安前期の大規模庭園に見られなかった、新たな庭園の要素と言える。実際に、塩釜を模した源融の河原院や天橋立を模した大中臣輔親邸などがあったことは著名である。こうした「名所」を模した庭園の誕生の背景には、和歌が深く関与したものと考えられる。
最初の勅撰和歌集『古今和歌集』(905年成立)は、和歌が公的な舞台に台頭したことを象徴する文学史上の転換点であるが、その『古今和歌集』の成立の背景には、寛平御時后宮歌合(889年)などの歌合の存在があった。歌合は、左右に分かれて和歌の優劣を競う遊戯であるが、そこには州浜台もしくは蓬莱台と呼ばれる装飾品が不可欠であった。歌合に用いられた州浜台は、州浜状の台の上に海浜や山里などの風景を縮小して表現したもので、その風景のミニチュアに合せて和歌を詠み、州浜の風景と和歌を一体として鑑賞して勝敗を競ったものである。注目されるのは、その州浜台には「名所」の風景が用いられることが多かったことである。現存する最古の歌合である民部卿行平歌合(884~887年頃)では、山里と荒れた宿の二つの州浜台が作られたが、そこで詠まれた歌には「音羽の山」「てくら山」「しのべの森」「布留の都」「箱根の山」「片岡の朝の原」など多くの名所が詠み込まれている。また、寛平御時内裏菊合(888~891年頃)は、「おもしろき所々の名をつけ」た大型の州浜台を準備し、そこに植えた菊に和歌を記した短冊を結びつけるという趣向であったが、この歌合では「山﨑の水無瀬」「嵯峨の大沢の池」「紫野」「大井の戸無瀬」「津の国の田蓑の島」「奈良の佐保川」「和泉の深日の浦」「紀の国の吹上の浜」「逢坂の関」など多数の名所が歌に詠まれた。和歌と対になった州浜台にこれらの名所の風景が再現されていたことは言うまでもないことだろう。このように歌合における州浜台は、和歌を詠むために日本各地の「名所」の風景を再現したものであったと見られる(歌合の和歌について詳しくは「庭園関連和歌データ」を参照のこと)。
和歌を詠むための装置としての州浜台と同じ機能が、庭園にも求められたがゆえに、寝殿造庭園の造園には「名所」を模すことが不可欠であったのではないかと推測される。和歌を詠むため、あるいは和歌を詠むに足るだけの風情を喚起させるためにこそ、寝殿造庭園は「名所」の風景を模倣したということである。無論、その風景は、和歌の中で作り上げられた観念的な風景のイメージではある。しかし、和歌と庭園を通じて、日本の地名とその景観(景物)が一つのイメージとして再現されることによって、初めて「名所」というものが形成されていったと考えられる。「名所」の形成は、これまでの庭園には見られなかったものであり、庭園のみならず、和歌や名所絵などが相互に連関した文化全体の大きな変化ともいうことができる。「名所」の形成とは、漢詩文の伝統によって育まれた「唐の風景」から脱して「日本の風景」を再発見することであり、そこに国風文化と呼ばれる文化的な潮流と価値観の変容を見ることができる。
しかしながら、寝殿造庭園は、今日、一つも残されていないことも事実である。ただし、寝殿造庭園と同じ様式の浄土式庭園は、宇治平等院や平泉毛越寺などに平安期創建の寺院に伝えられている。長年の歳月の間に修築、改築されてしまった部分もあるが、発掘調査などに基づいて往事を復元整備する努力も払われてきており、平安の寝殿造庭園の面影をしのぶことも全く不可能というわけではない。そうした庭園と和歌を立体的に結びつけて見る時、平安貴族が庭園に求めた「名所」のイメージや国風文化の美意識というものが、多少とも実感できるのではなかろうか。ここでは、以下の11の庭園について簡単に紹介する。
京都二条城の南側に位置する神泉苑は、平安遷都の当初から設けられた大規模な禁苑であった。しかし、現在は、真言宗の寺院となり、往時の1/16ほどの規模しか残されていない。法成就池と呼ばれる池の北側に中島があり、こんもりと草木に覆われている。また南側にある善女竜王社も本来は中島であったが、現在は参道の石橋や東側の反り橋(法成橋)によって自由に行き来ができるようになっている。州浜や立石などの庭園意匠は見られない。
京都嵯峨野の大覚寺は、元々は、嵯峨天皇(786~842年)の離宮である嵯峨院であった。これを、貞観18年(876年)に嵯峨天皇の皇女である正子内親王が寺院に改めたのが大覚寺の始まりである。寺の東側に位置する広大な大沢の池は、時代劇のロケ地としても知られるが、現存する平安期の庭園の中では最古の庭池である。池の西側に天神島と呼ばれる大きな中島があり、今は橋が渡されているが、平安期は出島のようになっていて陸続きであった。その天神島の池に突き出した岬の延長線上に庭湖石と呼ばれる飛び石が置かれている。この庭湖石は平安前期の画家として著名な巨勢金岡によって立てられたものという。庭湖石の更に先に松の植えられた菊ヶ島が浮かぶ。池の北岸は石敷きの州浜となっており、そこに遣水が注ぐ形になっている。その遣水の蛇行溝に沿って北に100mほど進むと「名古曾の滝」がある。藤原公任の和歌にもあるように、滝の水は早くに涸れてしまったようで、現在は石組みだけが残されている。
京都山科の勧修寺は、醍醐天皇が母の藤原胤子の追善のために胤子の兄弟である藤原定方に命じて胤子の祖父である宮地弥益の旧宅を寺院に改めさせたのが始まりと言われ、一般に昌泰3年(900年)の創建とされている。宸殿の前に広がる庭園の中心は氷室池と呼ばれる池である。集仙島、方壺島、緑鴨州の三つの中島が浮かび、うっそうと茂った草木に覆われている。池の岸は部分的にはなだらかな州浜状の傾斜も見られるが、池汀は石で固められている。観音堂の裏手には池に注ぐ滝もあったようだが、現在は水が枯れており、不動明王を祀っている。
円成寺は奈良市忍辱山町にある真言宗御室派の寺院である。創建については、奈良時代とする説(『円成寺縁起』)や平安時代の延喜年間とする説(『忍辱山知恩院縁起』)などがあり、定かではない。本尊である阿弥陀如来像は11世紀後半頃のものであることから、恐らく、その頃の建立と見られる。寺の建物が小高いところにあるため、本堂から庭園を一望することができる。この浄土式庭園は、平安末期に寛遍上人によって造営されたと言われ、本堂、灯篭、楼門、中島がほぼ一直線に並ぶ配置が特徴的である。中島は二つあり、池の中央には平坦な中島が配され、西側の少し大きめの中島は草木が茂っている。どちらの中島の岸にも一二か所の立石がある。また、二つの中島は、一見、石で固めた垂直の岸に見えるが、よく見ると水中に石敷きの州浜が確認できる。中島から続く飛び石は、いくつかの石を配置して荒磯風に仕上げられている。
都宇治にある宇治平等院は、藤原道長の別荘(宇治殿)を、息子の頼通が永承7年(1052年)に寺院に改めたのがその始まりである。天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂(現在の鳳凰堂)は、浄土式庭園の代表的庭園として著名である。阿字池と呼ばれる池を中心として、その池の中島の上に阿弥陀堂が東面して建てられている。堂内には定朝の作による阿弥陀如来座像が安置されており、池を挟んだ対岸から見ると、背後に聳える朝日山を背景にしてまさに西方から阿弥陀仏が来迎したような構図となる。発掘調査によって州浜が出土したことにより、現在は整備され、中島の周囲に石敷きの州浜が復元されている。ただし、池の岸は州浜ではなく、なだらかの傾斜となっており、立石などの庭園意匠も見られない。
浄瑠璃寺は、京都府木津川市加茂町にある寺院だが、むしろ奈良から行った方が便利な立地にある。寺名の「浄瑠璃」は、薬師如来の東方浄土「浄瑠璃世界」に由来するが、本堂には「九品往生」にちなむ九体の阿弥陀坐像が安置されており、池を挟んで東側に薬師如来の三重塔、西側に九体阿弥陀像を安置した本堂という独特の伽藍である。寺の創建は、『浄瑠璃寺流記事』という資料によれば、永承2年(1047年)とされ、また、庭の池は興福寺の惠信によって作られたものと伝えられている。池の南側に中島があり、その周囲は石敷きの州浜が復元されている。中島には、松とともに弁財天の小さな祠がある。流線形の中島の北側は岬のように細長く突き出しており、その先端部の水際にはいくつかの立石が見られる。この立石が、ほぼ池の中央に位置している。
京都の北東、右京区花園にある法金剛院は、元々は清原夏野(782~837年)の山荘であったが、851年に文徳天皇の発願により同地に天安寺を建立、一時衰退していたが、平安末期の大治5年(1130年)に待賢門院藤原璋子によって再建された。本尊は阿弥陀如来像で、その庭は浄土式庭園である。現在は、発掘調査に基づき整備復元されている。池には小さめの中島があり、石橋が渡されている。中島の岸は州浜ではなく、垂直な護岸になっている。中島の近くの池の岸には、3mほどの小規模の州浜が見られる。池には、日本最古の人工の滝と言われる「青女の滝」から流れ出た水が遣水を通して注ぐ形になっているが、現在の滝の水量は多くない。近年は、蓮の寺としても知られている。
毛越寺は、奥州藤原三代の本拠地であった平泉(岩手県西磐井郡平泉町)にある天台宗の寺院である。その創建は、寺伝によれば、嘉祥3年(850年)とされ、その後一時衰退していたものを、平安末期に二代藤原基衡(1105~1157年)が再興したという。発掘調査によって、寺院の伽藍は池の北側に建ち、池には南北の岸から中島に橋がかけられていたことが判明している。浄土式庭園の多くが、本堂(阿弥陀堂)から西に向かって庭園を造り、池に西方浄土を再現する趣向であるが、毛越寺の場合は、浄土式庭園でありながら、寝殿造庭園の形式と同様に建物の南に庭園を配した伽藍になっている。池の北岸はなだらかな石敷きの州浜を基調とするのに対して、南側は、池中の立石、荒磯風の飛び石、岬状の州浜、石組の岩山など変化に富んでいる。池の北側には蛇行した小川のような遣水があり、遣水の中には石積みの嶋なども作られいる。池の給水だけでなく、曲水宴にも使われたと推定されている。州浜も立石も見事で、浄土式庭園の代表であるだけでなく、寝殿造庭園の面影をも今に伝えている。
観自在王院は、藤原基衡の建立した毛越寺に隣接して基衡の妻が建てた寺院である。現在、建物はないが、平安末期の浄土式庭園が発掘調査に基づき復元されている。毛越寺から引いた遣水は、小さな瀧のように組まれた石組みから舞鶴ガ池に注ぐ。池の南寄りに中島があり、池の西岸には荒磯風の飛び石も見られる。また、池の北側に池から少し離れて築山の跡とみられるの小山があり、そこに巨大な立石があるが、ここから滝のように水が池に注いでいたと見られる。毛越寺と比較すると、全体として優美な女性的な印象である。
無量光院は、奥州藤原氏の三代秀衡によって平泉の中心部に建立された寺院である。京都の宇治平等院を模して造られたものと言われる。現在は、池と中島が残るのみで、池の西側にあった伽藍は失われて礎石だけを残すが、その背後には金鶏山が聳え、山に日が沈む日没時には阿弥陀堂があった往時の人々が抱いたであろう来迎のイメージを今も彷彿とさせる。池の対岸から西方浄土を観想させる庭園の造りは、平等院と同様の意匠である。
達谷窟毘沙門堂は、坂上田村麻呂の創建と伝えられる古寺である。その毘沙門堂の崖下の前庭には蝦蟇ヶ池がある。小さな池で、正確な創建年代も不明であるが、平安中期の遺物が出土いていることから、平安期の庭園と考えられるが、阿弥陀堂がないことから浄土式庭園とは見なしがたい。池の中島には弁天堂が建てられている。中島は石積みによる垂直な岸である。池岸の斜面は45度くらいの傾斜で、池汀の付近のみ石で固められている珍しい形である。崖上から引かれた遣水は、落差があるため滝状になって流れ落ちている。