奈良の庭

解説

飛鳥時代までの庭園の池は、飛鳥京苑池の池を除けば、すべて方形の池であり、また中島が無いものであった。飛鳥京苑池が作られた7世紀中葉以降になって、漸く曲池に中島を備えた蓬莱型庭園の様式が本格的に導入されたものと見られる。ただし、飛鳥京苑池の池にあっても、池及び中島の護岸は垂直的な石積みであり、これは島庄遺跡から飛鳥京苑池まで共通に見られる飛鳥時代の池の特徴となっている。
ところが、奈良時代に入ると、この垂直の石積み護岸がなだらかに石を敷き詰めた州浜式の岸へと変化する。即ち、曲池、中島、州浜が奈良時代の池の特徴ということになる。池の曲池化や中島の出現は既に飛鳥京苑池にも認められたところであり、奈良時代の庭園がその延長にあることは明らかであるが、州浜は奈良時代になって初めて見られるようになった新たな意匠である。しかも、唐や新羅の蓬莱型庭園にも類例がないことからすると、州浜は日本独自の池の様式と考えられる。

平城京東院庭園(庭園写真館「奈良の庭」東院庭園を参照)

こうした奈良時代の庭園としては、復元された「平城京東院庭園」が著名である。東院庭園の池は、Ⅼ字型の曲池を中心とし、その池の周囲には緩やかな傾斜に石を敷き詰めた州浜が形成されている。州浜はなだらかな曲線を描きながら、所々に岬のように突き出した部分を含めて複雑な汀線を形成し、一部には石組や立石によって荒磯のような風情も作り出している。この池は、8世紀前半に造営されたものであるが、当初は直線的な方形に近い形であった。その後、8世紀後半に大規模な改修が行われ、池をⅬ字型に改めると共に岬や出島などによってより複雑な汀線を作り、更に州浜に囲まれた中島も新たに加えたことが発掘調査によって明らかにされた。
8世紀前半の当初の池には中島が無かったということは、飛鳥京苑池以降の7世紀後半から8世紀前半までの期間も、必ずしも蓬莱型庭園が庭園様式として定着していたわけではないことを意味するものであろう。8世紀後半の改修については、同じようにⅬ字型の池を持つ新羅の雁鴨池(庭園写真館「韓国の庭」雁鴨池を参照)をモデルにしたのではないかという見解もある。当時は新羅使饗応などの儀式にも東院は用いられており、新羅の影響を否定してしまうことはできない。ただし、雁鴨池の池や中島の護岸は垂直な石積みであり、飛鳥の庭園(苑池の池を除く)の様式と同じである。また、雁鴨池の汀の一部には曲線的な部分も見られるが、少なくとも、州浜という新しい様式は雁鴨池の影響とは考え難く、日本独自のものと見られる。
また、東院の建物の南側には、緩やかに蛇行した水路がある。寝殿造庭園の遣水のようなこの水路では曲水宴などの儀式や詩宴がなされたと推測されている。曲水宴は水流に沿って列座し、觴が流れてくるまでに詩を作るいう遊戯的な宴会である。こうした蛇行水路の庭園は、平城宮左京東三条二坊宮跡庭園にも見られる。同庭園の蛇行水路は、石敷きの州浜に挟まれ、水路というよりも池のような印象である。長屋王邸宅での新羅使饗応が漢詩を中心としたものであったことから推測すれば、東院庭園や平城宮左京東三条二坊宮跡庭園でも公的な行事として詩宴が開かれたものであろう。『万葉集』には大伴旅人の梅花宴の和歌や大伴家持の曲水宴の和歌も見られるが、それらの和歌はあくまでも私的な行事の場に留まるのであり、和歌が公的な行事に参入するようになるのは9世紀末の歌合を待たなければならない。とは言え、奈良時代において、既に州浜の庭園を舞台に曲水宴がなされていたことは、寝殿式庭園の形成基盤として留意される。