飛鳥の庭

解説

日本の庭園は、いつ頃から始まったのであろうか。文献的には『日本書紀』景行天皇4年2月条に宮廷の池に鯉を飼っていたとあるのが、苑池すなわち庭園に関する記述の初出である。ただし、庭園のイメージを古墳時代にまで遡って国史に盛り込んだ可能性が高く、歴史的信憑性は薄い。ただ、4世紀後半の祭祀場跡と見られる城之越遺跡(古墳時代~中世)では、三つの水路の合流地に階段状の石組や立石が確認されており、こうした祭祀場に庭園の源流を見る向きもある。「庭」と祭祀の関係は根源的な問題として軽視できないが、ここでは大陸から輸入された蓬莱型庭園を「庭園」の指標とすることにしたい。蓬莱型庭園は、海に見立てた池と蓬莱山を象徴する中島を基本的な意匠とする庭園で、古代中国を中心に朝鮮・日本などの東アジアの周辺諸国に広まった庭園様式を指す。6世紀までの段階では、大陸の蓬莱型庭園を導入されることはなかった。その意味では庭園未満の段階であったとも言える。
日本で蓬莱型庭園が初めて導入されたと見られるのは、「島大臣」と呼ばれた蘇我馬子(?~625年)の邸宅である。馬子邸は島庄遺跡として発掘調査され、大型の長方形の池があったことが確認されている。その他にも石神遺跡、飛鳥池工房跡、飛鳥京苑池などで池の跡が発掘されている。これらの飛鳥の庭園の特徴は、方形の池である。プールのような直線的な汀線や垂直的な石積みの岸といった特徴は、百済の定林寺跡、弥勒寺跡、官北里遺跡などの池と全く同じである(庭園写真館「定林寺跡」・「弥勒寺跡」・「宮北里遺跡」参照)。飛鳥の方形池は百済から導入されたものである可能性が高い。しかし、飛鳥の方形池が大陸の蓬莱型庭園であったとは即断できない。7世紀前半の島庄遺跡(蘇我馬子邸)の池については、文献的には中島が作られたことになっているが、発掘調査によっては中島の存在は確認されなかったからである。同じく石神遺跡や飛鳥池工房跡の池についても中島の存在は認められなかった。唯一、中島が確認された庭園は、7世紀中頃に造営された飛鳥京苑池のみである。東アジアに伝播した蓬莱型庭園の大きな特徴は、海を模した池と蓬莱山を象った中島であるから、この点、多くの飛鳥の方形池が蓬莱型庭園の様式に合致していないことは明白である。
百済の定林寺跡、弥勒寺跡、官北里遺跡などの方形池がいずれも寺院の蓮池であることからすると、島庄遺跡、石神遺跡、飛鳥池工房などの7世紀前半の池は、蓬莱型庭園の池ではなく、百済の寺院に見られる蓮池を模倣したものではなかったろうか。蘇我馬子が熱心な仏教支援者であったこと、あるいは石神遺跡では須弥山石が作られたことなどから見ても、島庄遺跡や石神遺跡が仏教文化と深く結びついていた可能性は高い。須弥山や蓮池は最新の仏教文化のシンボルとして国家や為政者の権威を高める働きをしたとも考えられる。ただし、飛鳥池工房跡の方形池については仏教では説明し難く、工房における実用的な池でったと考えるべきであろう。
本格的な蓬莱型庭園の導入は、中島が確認される7世紀中葉の飛鳥京苑池からである。元々、蓬莱型庭園は中国の禁苑で形成されたものであり、斉明朝の遣唐使を通して唐の大明宮の太液池などの様式が飛鳥の苑池に導入されたとしても不思議はない。蓬莱型庭園の場合、蓬莱山を模した中島は不可欠であるが、池の形が方形である必要はない。飛鳥京苑池の南池は、正確には方形とは言えない歪な五角形であり、また部分的には人工的な岬や荒磯のような池汀の変化を持っている。何よりも池に中島があったことが確認されている。これらの点は、他の飛鳥の方形池の様式とは明らかに異なる点であり、蓬莱型庭園に合致する点でもある。従来、飛鳥京苑池の池は、他の飛鳥の池と同様に方形池として分類されてきたが、むしろ蓬莱型庭園を導入した最初の庭園と見るべきであろう。
こうした蓬莱型庭園が奈良時代の庭園に繋がっていくわけだが、一つ注意されるのは、池の垂直な岸である。飛鳥京苑池にあっても池や中島の岸は垂直な石積の護岸であり、なだらかな石敷きの州浜はまだ見られない。方形か否かという池の形よりも、この垂直的な石積みによる池の護岸こそが飛鳥時代を通じた庭園の特徴ということができる。

島庄遺跡(蘇我馬子邸)の庭園

人工的な池や山を配した東アジアの庭園様式と造園技術が導入されたのは飛鳥時代からである。『日本書紀』推古天皇20年(612年)に百済からの渡来人である路子工が宮廷の南庭に須弥山や呉橋を作ったという記事があり、これが日本における庭園の始発点と考えられる。同書の推古天皇33年(625年)正月条の蘇我馬子(?~625年)の卒伝には、「家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣。」と見え、馬子邸の庭には「小池」と「小嶋」が作られていたことがわかる。この池と中島の造形こそ、東アジアの蓬莱型庭園様式によるものに他ならない。この庭園によって馬子は「嶋大臣」と呼ばれており、当時としては蓬莱型庭園が珍しかったことも窺われる。この馬子邸の跡と目されるのが、石舞台古墳の近くにある島庄遺跡である。実際に島庄遺跡では、石組による垂直的な護岸を持つ40m四方の方形池が確認されたという。この方形池は7世紀前半のものと言われており、『日本書紀』の馬子邸の記述とも一致する。ただし、発掘調査の結果、そこに中島の遺構は認められなかった。現在は遺跡が埋め戻されて、実見することはできない。

嶋の宮の庭園

馬子邸は、後に草壁皇子(662~689年)の「嶋の宮」になったというのが通説である。だが、『万葉集』の草壁皇子を悼む挽歌群では嶋の宮の池を「勾の池(まがりのいけ)」(170番歌)と詠んでいることから、嶋の宮の池は曲池であった可能性が高く、島庄遺跡で発掘された方形池とは異なっていることは問題である。また、同挽歌群には、「島の荒磯」(181番歌)や「磯の浦廻(いそのうらみ)」(185番歌)などの表現も見られる。荒磯を模した石組みや「浦廻」と詠まれた池汀の湾曲を想定した場合、やはり嶋の宮の池が方形池であったとは考え難い。『日本書紀』皇極天皇4年(645年)条にあるように、嶋の宮は中大兄皇子(後の天智天皇)によって嶋大臣邸に隣接した橘あたりに新たに建てられた可能性も視野に入れる必要があるだろう。嶋の宮で注目されるのは、草壁皇子が生存した7世紀後半の時点で、直線的な方形池ではなく、荒磯などの海浜を模した曲池が既に作られ始めていたということであり、その庭園を和歌に詠むという行為も早くからなされていたということである。

石神遺跡

『日本書紀』斉明天皇3年(657年)条には飛鳥寺の西に須弥山の像を作り、盂蘭盆会を行い、都貨邏人を饗応したという記事が見える。同5年(659年)条にも甘橿丘の東の河原に須弥山を作り、蝦夷を饗応したとあり、更に同6年(660年)条にも石上池の辺に須弥山を造り、粛慎人37名を饗応したとある。三回にもわたり繰り返し須弥山を作らせたという斉明紀の記事は定かでないが、確かに飛鳥寺の北西に位置する石神遺跡から須弥山石と見られる石造物が発掘されている(庭園写真館「その他の庭」飛鳥資料館を参照)。噴水機能を備えたこの須弥山石が斉明朝の須弥山であったとすれば、推古朝20年条の路子工が作ったという須弥山も、あるいは築山でなはく、須弥山石と同様の石造物であった可能性がある。石神遺跡からは他にも建物、石敷きの広場、石組の溝(水路)、井戸、方形池などが発掘されている。同所が斉明朝における対外的な儀式空間であったことは明らかだが、発掘された6m四方の方形池は、遺跡全体の広さからすると極めて小規模と言わざるをえない。垂直の石組みで囲まれ、池底にも石敷きが施されていたが、深さは80cmほどと浅い。この方形池が、前掲の斉明紀6年条に見える「石上池」に当たると見られるが、この池には中島の遺構は確認されなかった。蓬莱型庭園において、神仙境の蓬莱山を象った中島は庭園の中心を構成する。一方、石神遺跡から出土した須弥山石に象られた須弥山は仏教で説くところの宇宙の中心である。石神遺跡の場合、庭園の中心をなす蓬莱(中島)に相当するのが、須弥山石であったとも考えられるが、しかし、須弥山石が出土したのは池やその周囲ではなく、石敷きがなされた広場付近であった。恐らく、池とは無関係に須弥山石が配置されていた可能性が高い。施設全体の規模に比して池が小さ過ぎること、池に中島がないこと、須弥山石には噴水設備の機能があったことなどを勘案すれば、蓬莱型庭園の様式とは明らかに異なるコンセプトによって作られたものと言わなければならない。これを蓬莱型庭園とは異なる別な様式の庭園と見るか、庭園とは異なる儀式的空間と見るかは微妙な問題である。

飛鳥京の苑池

「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接して南北約280m、東西約100mにも及ぶ広大な苑池が作られていたことが確認されている。この飛鳥京の苑池は、7世紀中葉の斉明朝の造営で、その後も天武朝の頃まで改修が繰り返されてきたことが発掘調査によって明らかにされている。巨大な池は細い堤によって区切られ、南北に二分されてた形になっている。石組みの垂直的な護岸や池底の敷き石などは他の飛鳥の池と同様であるが、南池は方形というよりも五角形に近い。南池よりも少し小さな北池の方は長方形に近い。南池には周囲を石で囲んだ平坦な中島と石積みが確認されている。中島にはいくつもの柱穴があり、寝殿造の釣殿のように建物の一部が池の上にせり出していたことも想定されている。この中島が、飛鳥の庭園の中島として存在が確認された唯一の例である。また、南池の一部には岬のように突き出た部分や荒磯のように石組みをした部分もあり、方形池を特色とする他の飛鳥の庭園とは異なる意匠が見られる。なお、北池では、近年、祭祀に関係すると見られる湧水施設も発掘されている。ただし、現在は、埋め戻されており、案内所にパネルのみが展示されている。

飛鳥池工房跡の池(写真館「飛鳥の庭」飛鳥池工房を参照)

富本銭の鋳造などで知られる飛鳥池工房の跡地は、現在、万葉文化館となっているが、その裏庭に発掘された池の跡が残されている。4m四方の正方形で、石積みの護岸はほぼ垂直である。中島は無い。工房という性格からすると、庭園の池とは異なり、実用的な池であった可能性が高いが、韓国の官北里遺跡の蓮池と比較すると(写真館「韓国の庭」官北里遺跡を参照)、構造が非常によく似ていることは注目される。飛鳥の池を知る上で貴重な実例であるので、庭園の池に準じて紹介しておく。